音声で聞く
自転車日本一周の思い出
思い出が蘇った日(2009/9/5)
 平成21年の赤石さんの秋祭りは素晴らしい好天に恵まれ、例年通りに山車も4台が繰り出してテキ屋さんの屋台もたくさん並んで大いに盛り上がりました。その最中、2人の青年がサイクリング姿で自転車を押して山車の後を歩いて来るのが目に入りました。懐かしい想いに駆られて思わず「何処から来たの?」と声を掛けてしまいました。「北海道からです。」と2人が同時に応えました。そこで、つい「実は、私もハタチの時に自転車で日本一周したことがあったので、昔の自分を見た気がして声を掛けてしまったんですよ。」ともらした。2人は目を輝やかせて「いつ頃のことですか?」と身を乗り出して来ました。「今から43年前のことです。国道の舗装率が30%もない頃だったので、舞い上がる土埃の中を手拭いでマスクをして大きなサングラスを掛けて、まるで月光仮面のような格好で走ったんですよ。」二人の青年のようなスマートな出で立ちではなかった。更に思い出はよみがえって「7月半ばから真夏に九州に向かい、青森に着いたのが9月を過ぎていたので北海道は廻れなかったんです。60才になったら人生にけじめをつけて、北海道一周を決行しようとず〜っと思ってたんですけど、64才になっても人生に区切りがつけれないでいるので体力的にもダメかもしれないね。」とこぼすと「大丈夫ですよ。今回、廻っている間に75才で北海道一周をしってる方に会いましたよ。」と逆に励ましを受けました。2人はこれから宮城を回って北海道に帰るとのことでした。はつらつとした後ろ姿を見送りながら、2人の道中の安全を祈りました。

 現在の紫波町のキャッチフレーズは「銭形平次のふるさと」とか「フルーツの里」などと多数ありますが、40数年前には「自転車の町」と呼ばれてました。紫波高校自転車部が、ロードレースで好成績をおさめて活躍したことで名付けられたもので、昭和48年の岩手国体では自転車競技の主会場となり、競技用バンクも建設されました。それ以後、ロードレースだけでなくバンク競技でも優秀な選手を輩出してきた歴史があります。自転車日本一周を思いついたのは、そのような地域の状況からではなく、中学3年の受験勉強の最中にラジオから流れた番組を聞いて感化されたのが動機でした。当時のある青年が自転車で日本一周に挑んだ記録をドラマ化した番組でした。「俺もハタチまでに日本一周をやるぞ!」と決意した思いが胸の深く残っていたのです。
 東京町田の勤めていたお店を辞め、1966年7月8日に旅立ちました。その旅の道筋は三浦半島、伊豆半島を手始めに日本地図が描けるように海沿いを自転車で踏破するもくろみでした。御前崎、紀伊半島、淡路島を経て四国を一周し高松から宇部へ宇高フェリーで本州に戻り山陽道を駆け抜け、関門トンネルをくぐって九州を時計回りに別府大分マラソンコースを走り延岡についた頃は、最高気温40度とラジオが告げていました。それでも日南海岸は平坦で舗装が施されていたので日南町までの100kmを1日で走破できました。鹿児島垂水で2日の休息の後、熊本、長崎、下関、山陰、北陸、東北と日本海に沿ってひた走る北帰行で青森の弘前を迂回し初秋の岩手に帰りました。赤石さんのお祭りは既に終わっていました。

 今でも思い起こせば、2ヶ月間の日々の情景が目の裏に浮かびます。一人旅でしたが、何処に行ってもすぐ友達が出来ました。いろいろな出会いと出来事に遭遇しました。人生の終盤に差し掛かった今、二人の青年との出会いをきっかけに二十歳の思い出をもう一度振り返り、やり残している北海道一周を決起したいと思っております。

紫波新聞・投稿記事WEB版
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目明かし捕物控:文責佐藤
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